nil / DROP

上からの続き・・。二つで一体ですよ。うわ自分超卑怯(笑)
以下妄想タイム。
以前私が「冬のライブ見た結果次のアルバムはロキノンになるぜ!!!」と予言したんだが、見事外したくさいのでまぁごめん。皆さん忘れてください。哲君はよく分からない人、というのが正直なところなので。ロキノンというかオルタナ全開、いや、90年代なんだよーと言いたい感じだったのですが特にそういうわけでもなかった。
…まだシングルだけだしアルバム聴いてないからわかんないけど。
思った以上に本気モードだった。これをシングルとして切るんだぁ、と思わず驚いてしまった気がしました。けどもよく考えてみれば1曲目と2曲目の印象が良い意味で対照的だし、シングルとして、名札として切るのはいいのかもしれない。
ただ「毒針とステロイド」を聴くと本当に「ああああああ」と苦悩する。この曲をライブであの3人のnilとして聴きたかった。あの3人のnilっていうのが押し出された音とグルーブなだけに本当にそれが残念だ。このシングルを聴くとアルバムの音が物凄く楽しみになるんだけどもその反動でめちゃ凹みそうな自分がいる。こういうタイミング、こういう音の合わせ方はあの3人がライブで培ってきたものなだけに、そして自分がそのnilという存在、音をめちゃくちゃ、上手く言えないほど大好きだったけに(みんなと同じで)。アルバムでこういうのさらりとやられてしまうと切ないんだろうな。
「こんなに素晴らしいのに。もう聴くことができない。」
蛇の生殺し状態だ。
nilは足し算とか引き算が上手くなった気がする。何を一番持って来たいのか。音なのか。メロディーなのか。歌詞なのか。雰囲気なのか。勢いなのか。楽しさなのか。…哲君なのか。そういうの諸々。
私が最初にnilを見た頃はnilは哲君なんだけど哲君一人じゃそれを出来ない。茂呂ちゃんと樫がいるからnil足りえているんだなぁと捉えていた。そういうバランスが絶妙なんだと。けども徐々にそのバランスが面白く壊れてきて二人がふらふらしているのを哲君が首ねっっこ掴むような感じにもなったりして、それぞれの色が出てきたと思うわけなんです。ライブだとそれがとても顕著だった。nilの根幹は哲君であるけども、二人がそれを把握しつつ前に出るようになってきた。そういう感じだと思っていた。
んでもって、今度はそれを3人がきちんとコントロールできるようになったのかなと思ったんだけど。足すところ、引くところ。生かすところ。目立つところ。その上で哲君が物凄く素直になったというかまっすぐに物事や音を見ているような印象だなと感じました。裸になるのは誰だって怖いと思うんですけど。私が哲君の曲を聴いている際、ZIGZOの時はひねてたしちょっと足掻いているなぁというのを感じていて。nilになるといきなりシンプルになったなぁと思うんですね。年とったからなのかもしれないけど。最近更にまっすぐになってる気がするな。オリオンの音とか曲内容。あぁいうのはやれるけどやらないんだと思ってたから。それをやれるようになったってのはさ、うん。でかいね。そういうのを「出せる」状況になることが出来た、哲君を裸にさせたnilそのものが素晴らしいんじゃないのかな、と思った。それはあの3人の「役割」を越えたコントロール。何を言いたいのか。nilはどうしたいのか。どうしたらより「哲君」を引き出せるのか。
あの3人の絶妙さが見えてくるシングルだった。哲君がまっすぐなのが好きだし、そういう歌を出させるnilというバンド、そしてやっぱりそれを作っている3人が見えてくる1枚なんだと思った。nilを一番よく分かってるのはnilなんだから当たり前かもしれないけど。そういったことに気付かせてくれた。
以上妄想タイム乙。


ホント。ホントに私は高野哲と樫本博之と茂呂享志のnilが好きだわ。やばい。


ちょっと4月の仙台自信ないかもしれない…。ちゃんと自分の耳で聞いて判断するよ、とか言ってるけどさ。実際生で見たらショックでかそうで不安な気もしないでもない。


あぁ、本当に言いたいことはアルバム出るまで言わないでおこう。
色々と。あんまり実感できないんだ。