続・スリーアウトチェンジ

90年代初頭の熱を背に受けながら、残りの90年代を過ごしてきた。

あんなに子供達をチビらせていたノストラダムスが世紀の大失敗、鉄板を叩き割るみたいなことをして、そのまま21世紀へと突入した。なんにも起こらなかった。世界は終わらなかった。いくつかの大きな事件は起きたけれども、世界は終わらなかった。みんな退屈を持て余してて、けれども夢中になること(友達や恋人だとか、音楽だとか、漫画だとか、フェスやライブやクラブだとか、洋服を買いに行くことだとか、そういうこと)については凄くパワー溢れていた気がする。
退屈との戦いだ。


そして、7%くらいの確率で、もしかしたらこの世界は良くなるかもしれないなんていう儚い希望を抱いていた。
少なくとも私は、ね。そんな希望も見事に打ち砕かれるほどの何もなさだった。


00年代になった。世界はあっさり911で飛び上がり、希望なんていうものは見えなくなってしまった。どう足掻いたって先の世界には不安が付き纏う。周りの人たちも段々音楽について話さなくなったりしたし、自分も仕事で忙しくなって言葉を書くことを忘れてしまった。
時間との戦いだ。


あの頃もとても生きるのがきついなぁと思っていて、2度とこんな日々は繰り返したくない!と思っていたけれども、今みたいな生気のなくなる感じも辛いぜ。じわじわと感情が薄くなるような、じわじわと世界の音や存在が鈍くなるような感覚が。あぁ、確実に死に向かっているんだなぁと思ってしまう。


これはいかん、と思ったけれども何も書くことが出来なかった。何と言うか、言葉を忘れていたし、感情よりも現実や理性が勝ってしまっていた。全くもってつまらん人間になってしまったと失望した。これが大人になるという事なのか。いやー、違う。つまらない大人になったんだろうな。


けれど、それはイヤだと思う。
私は懲りずに夢を見てしまうからなぁ。それでも何かを夢見てしまう。たとえ結果がスリーアウトチェンジだとしても、そこに宿るあの奇跡みたいな音につい感動してしまう。それを求めてしまう。
いつだってくだらないことやつまらないことに心惹かれてしまう。
それは10年前の私が夢見ていたことだ。「ずっと、つまらないことやくだらないことを大切にできますように」と。あぁ、なんだ。変わっていないところもあるじゃないか。

どうしても祈ってしまう。
どうしたって信じてしまう。
そんでもって、それを誰かに伝えたいと思ってしまう。


やっと、最近そう思うことが出来た気がする。28歳にして10年後が想像出来ずにストレス性胃炎なんてのになってしまったからだろうか(←相変わらず胃が弱い)。28歳にして大学生のような悩みを抱いてしまうからなんだろうか。何にせよ、私は悩むと何かを書きたくなるし、悩んでいるときの方が良いことを書ける気がする。優しくなれるからだろうか。あぁ、そう言えばずっと自分は優しくなりたいと願っていた。なれんたんだろうか。なんか一生願ってそうだな自分。



そしてまた思う。そういやタナソウは元気にしているのかしら。あなたが優しくいれますように。あなたが少しでも笑えていますように。


またあの音が鳴り響けばいい。