見せてくれ 心の中にある光

大声で笑いたいのに
笑う事が出来ない僕と
大声で泣きたいのに
泣き出す事が出来ない君

痛みに慣れてしまったのは
きっと臆病だったから
夢を忘れてしまったのは
変わらぬ日々に疲れたから

LOST IN TIME / ココロノウタ


この曲がとても好きだ。
いつも自分は悲しい時にワンクッション置いてしまう。それに慣れすぎて悲しさに鈍感になっている気がしてしまうほどだ。昔からあんまり感情を表に出さないようにしようと努めていたら、悲しい時に笑えるし、笑いながら心の中で悲しいような人間になってしまった。
ただ音楽を聞いたり本を読んだり映画を見たりした時だけ素直に感情が現れる気がした。
なんかいかんよなぁ。病的だよなぁと思いながら大人になり、今でもそれは変わらない。そんな諦めを抱えつつ、今日も朝起きると新聞の震災の死亡者欄を見てしまう。福島に住んでいる親戚の名はないか確認しながら、同じ苗字が連なる名前を見かけたり、娘と同じ年頃の子どもの名前を見かけて胸を痛めたりする。それはフラットな平熱の悲しみに思える。淡々と訪れる悲しさ。けれど慣れることはない。いつかは慣れてしまうのだろうか。忘れないように忘れないようにと願うけれど、それはいつか遠く彼方の出来事として記憶の隅に追いやられてしまうのだろうか。
この前のエントリがー感情的過ぎて恥ずかしい。だけど世界は変わったんだなと思う。それだけは強く思う。もう後戻りが出来ない。何故なら時は不可逆だから。けれど私たちは案外普通に生きているし、私だって変わらぬ生活を繰り返しているだけだ。ほんの少し、違うだけだ。そのほんの少しの違いが未来をがらりと変えるのだろう。既存の体制や価値観が崩壊していく。私たちは以前と同じやり方を選ぶのだろうか、それとも違う何かを手にするのだろうか。
どうしてこんな事を書いているのかと言うと、身内が亡くなりかけていたからで、別に震災ではなくて普通の病気なんだけども、そんな時でも悲しさに鈍感であった自分に気がついたからだ。いつだってそうなのだ。父親が亡くなった時もそうだった。感情を閉じ込めてしまう癖をどうにかしたい。どうにかならないのは分かってるんだけど。自分の場合いつだって悲しさは後から2倍になってやってくる。
顔色を変えずに黙り込んでいたら娘が「ちゅー」っと言いながら頬にキスをしてくれた。その素直な感性に言葉を失う。いいなぁ。子供ってどうしてこんなに可愛いのだろう。そんな時に思い出す。

「神様はいると思った」